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ハワイ諸島の誕生

ハワイ諸島は海底火山の噴火によって形成されました。ホットスポットと呼ばれるマグマの噴出するポイントの上を近くが動くにつれ、隆起と沈下を繰り返し、西から東へと順に島々が誕生しました。

8つの主要な島々のうち最も古いのが北西に位置するニイハウ。最も新しいハワイ島南東岸では、今も火山活動が見られます。

ポリネシアからハワイに

西暦500年〜900年頃にかけて、マルケサス諸島やタヒチから渡ってきた人々と共に、ハワイの歴史が始まりました。彼らは、大型のアウトリガー付きカヌーに、家畜や植物を満載し、星だけを頼りに海を渡ってきたといわれています。

彼らは、このときポリネシアの神々や社会システムをもハワイに持ち込みました。古代ハワイの文化や社会の基礎はこのときから根付いたのです。

キャプテンクック

1778年、太平洋探検航海中のキャプテン・クックがにハワイ諸島を発見、カウアイ島のワイメア湾に初上陸しました。クック船長は、イギリス海軍のサンドイッチ伯爵にちなみ、サンドイッチ諸島と名付けました。

1779年、再びハワイを訪れたクック船長は、地元住民とのトラブルが原因で命を落とすことになります。

ハワイ諸島の存在は、ヨーロッパ諸国に知られるところとなり、この後宣教師や商人が島をおとずれることになります。

カメハメハ大王とハワイ王朝

17世紀後半のハワイは、各島を有力な首長がおのおのに統治していまし、小競り合いをくりかえしていました。そんな中、キャプテン・クックによってもたらされた、イギリスの武器や帆船、ヨーロッパ式の戦術にいち早く目を付けたカメハメハ大王が、1810年にハワイ全島統一を成し遂げて、ハワイ王朝が誕生しました。

捕鯨基地として理想的な場所に位置するハワイ諸島は、この後列強の干渉を受け、次第に歴代王の権限は制限されていくことになります。

プランテーションと移民

19世紀中頃から、サトウキビプランテーション目当てに、日本、中国、フィリピン、スペイン、ロシア、朝鮮、ポルトガル等から、大量の移民がハワイに殺到しました。

1881年、カラカウア王が世界一周旅行の途中で日本に立ち寄り、明治天皇と会見しました。これを機会に、1885年、日本とハワイの間で移民制度が締結せれ、ハワイにおける日系人の歴史が幕を開きます。

ハワイ王朝の終焉

プランテーションの拡大により、外国人農園主や資本家は次第にその勢力を拡大するにつれ、ハワイ人勢力の拡大を目指す王政復古派と、親米の白人勢が対立するようになりました。

1893年、ついに白人達は無血クーデターを起こし、時のリリウオカラニ女王は、退位に追い込まれ、ハワイ王朝は約1世紀の幕を閉じることになります。

翌1894年、ハワイ共和国を宣言、1898年にはアメリカ合衆国議会でハワイの併合案が通過し、ハワイはアメリカ領となりました。

第2次世界大戦

アメリカ合衆国に併合されたことにより、ハワイ諸島は太平洋の要衝となり、米軍は徐々にその存在を拡大してきました。

ハルノートにより、満州やインドシナ等海外検疫の放棄を迫られ、資源の供給を絶たれた日本は、日米開戦を余儀なくされ、1941年、米海軍の中枢である真珠湾を攻撃しました。この攻撃により、アメリカの世論が参戦を支持、アメリカと日本が直接対決する事になります。

アメリカに住む日本からの移民ははもちろん、アメリカ人であるはずの二世たちも敵国人として扱われ、強制収容所に収容されることになりました。2世達は米国への忠誠を示すため志願し、ヨーロッパ戦線の最も危険な前線に配置され、数々の功績を残しました。

ハワイ州の誕生と観光産業

度重なる申請と却下を繰り返した末に、1959年3月、ベイ議会はハワイを州として認証、同8月21日正式にアメリカ合衆国50番目の州となりました。

ハワイでは戦後、砂糖やパイナップルなどの農業は海外勢の安い労働力により廃れ、代わって航空機の発達により観光産業が成長しました。